
編集後記(2025年3月)
▼書と文化に掲載の『空海之書 弘法大師書跡大成』は昭和五十四年、東京美術発行の和綴じの帙(ちつ)入り。鮮明な三十帖策子を探していて書棚に眠っていた本書に気がついた。四十年前に大枚をはたいて購入した書籍だ。過去の至らなさを悔いていたが、忘れものを見つけたようで嬉しい。ただ、今の価格は十分の一になっていることも知った。
▼空海『三十帖策子』は半世紀以上も前になるが、最初に臨書した古典。当時は闇雲に空海の筆を追うだけだったが、柔らかな文字に心を奪われていた。温かい中にも厳しい線があり、筆先をきかせた部分と筆の豊かさを生かした線は中鋒の美しい線だ。空海の豊かな人間性に接するような感覚を抱き、密教を極めたいという空海の真摯な姿が伝わってくる。
▼三十帖策子は空海在唐中の筆跡で、学問と書は幼少から手ほどきを受けたと思われる。十五歳で上京して皇太子の教育係であった伯父阿刀大足の訓導を受け大学に入る。しかし空海の才能は大学の枠には収まりきらず中退。私度僧となり山野を踏破し、密教行者として万巻の経典を読み、筆を執って文章を書き、得度し唐に渡った。三十一歳であった。
▼人が人として誇りをもって生きるには、文化の力が必要不可欠。価値あるものを大切にしたい、と久しぶりに素直な気持ちになった。 (神原藍)